1982年8月31日火曜日

苫前のグリーンヒルキャンプ場

未だ少し酒が残っているようだ。
しばらく走って1時間程昼寝をする。とても良い日だ。気分も少しずつ回復している。
この日は深川市から再び海を目指し、留萌から苫前まで走る。追風で快調にとばす。

 苫前のグリーンヒルキャンプ場でキャンプ。使用料0円にしてくれた。静かな、なんとも久し振りにのんびりしたキャンプのような気がする。



苫前海岸のきれいな夕日。



1982年8月30日月曜日

宿酔

やっぱり宿酔だ。
男性陣は今日は遅い入坑らしいが、もう出勤の準備を始めている。僕は起きることが出来ず、蒲団の上でお礼を言い、別れの挨拶をした。

15時。これ以上迷惑はかけられない。ごはんをご馳走になり、おにぎりを頂いて出発した。

今は皆どうしているだろう。彼等の炭鉱も数年前に廃鉱となった。相変わらず元気でいるんだろうなぁ。本当に有り難う。この旅行の中でも上位にランクされるインパクトのある思い出です。

二日酔いのまま北上。深川市まで走る。町外れのバス停で寝ることにする。
一人になると、この数日の騒ぎがまるで夢のようだ。静かに就寝。さすがに今日はビールは飲めない。

1982年8月29日日曜日

歌志内へ

朝、彼等は早めにテントを撤収し、来た時のように砂埃を上げながら「どどど!」と去って行った。「近くを通ったら絶対寄って行けよ!」の言葉を残して。


今日はどこへ行こうかまだ迷っていた僕の耳は、この最後の言葉に反応し、次の瞬間には地図を広げ、ここから歌志内市までの距離をはじき出していた。7、80km。「いける」。今日の目的地は歌志内に決った。

早速、僕もテントを撤収し、国道451号線を滝川市向けて走り出す。
少し不安だったが、思った程アップダウンもきつくなく楽に滝川に到着。教えてもらっていた電話番号へ電話をし、早速今日行って良いか確認する。1日で来れるのか?、と驚いていたが夕方には着けると話すと、大歓迎の返事。さてもうひと走りだ。

降り始めた霧雨のなか、予定通り夕方に到着。
はじめに町内の温泉施設へ連れて行ってくれた。
風呂あがりに大酒を飲み、よっしゃーとマージャンが始まる。う~、久し振りだ。やっぱり大負けして、次はスナックへ繰り出す。
もうどうにでもなれ~っと飲み歌い続けて、夜中の2時ころ帰宅。もう訳が判らなく全員ごちゃごちゃと絡むように眠りにつく。

1982年8月28日土曜日

大量飲酒的日々

朝ゆっくり出発。海を眺めながらの快調に走る。浜益からどう行こうか迷う。

当時の地図だと、このまま北上すると海岸の道は寸断、若しくはかなりの難所と見た。かと言って内陸への国道451号線もアップダウンが有りそうだ。しょうがないので、浜益の、川下海岸のキャンプ場で早めの幕営とし、ゆっくり考えることにした。

北海道はもう夏も終ったらしく、海水浴場と思われるこの浜辺には人っ子一人居ない。売店も開いていない。午後の風に当りながら、予め買っておいたビールを飲む。心静かなひととき。

と、そこへ、「どどど!」と砂埃をあげて1台の乗用車が出現した。僕の近くにそれは停車し、なんだか恐そうなおにいさんが降りて来た。
「キャンプ?」
「そ、そ、そうです」
「俺達もなんだ。近くに来て良い?」
「どどど、どうぞ」。

すると車からどやどやと一家族が降りて来た。4、5歳位の子も居て、なんだか一安心。彼等は僕のテントの隣りにぴったりとテントを張って、宴会の準備を始めた。
そんな様子を眺めながら、ビールを1リットル程飲みほして、僕も少々良い気分になってきた。
「どう。一緒にやらない?。食いもんもいっぱい有るし、酒もいっぱいあるし」
「でわ、お言葉に甘えて」ということで、初秋の海岸大宴会が始まった。
だいぶ酔いが回ってきたところで、さっきから気になっていたことを聞いてみた。
「いやぁ、最初は外国人かと思いましたよ。」
「あぁ、そうだろ。俺たちは"アイヌ"なんだ」。
なるほど、そうなのか。初めて会ったのだけど、彼等の顔はほりが深く、目がぱっちりと大きくてとても魅力的だ。



一人だけ違うかんじの人が居たが、彼は結婚して東京からこちらに来たらしい。歌志内市に住んでいて、奥さんの両親と同じ社宅に住み、お父さんと同じ炭鉱で働いているそうだ。どうりで威勢がいいと思った。


とても荒っぽくて、口が悪くて・・・、でもとても楽しくてやさしい人達でした。
夜中まで宴会は続き、やがて騒ぎくたびれて眠りについた。






1982年8月27日金曜日

サイクルショップ青い鳥、とうきび、夕張メロン

気持のいい蒲団でゆっくり休ませてもらい、疲れもすっかりとれて感謝のスタート。

走り出して少しするとスポークが折れた。直ぐ交換と思ったのだが、後輪のためフリーを外さなければならない。しかたがないので応急処置をして、走りながら自転車屋さんを探す。

ほどなく「サイクルショップ青い鳥」発見。早速立寄って工具を買う。
ONO商会でおこられたのを思いだし、これからまだまだ長い旅なので、自転車全部いじれるだけの工具を全て購入。

店の前でスポークの交換して店内に入ると、とうきびと夕張メロンを用意して待っていてくれた。どこかの業者さんと一緒にごちそうになる。夕張メロンは初めて食べる。うまい!。とうきび。甘い!。

少し話しているとお昼の時間。昼ごはんまでごちそうになり、なんと新鮮な帆立もいただいた。なんて親切なんでしょう。感謝感謝の中出発。ほんとうに有り難う。

強風の中、望来の海岸まで走りキャンプ。「望来」、良い名前ですね。さっそくもらった帆立をマーガリン焼きにして、例によってビールで乾杯。

 夕方、馬が散歩に来た。でかい。びっくり。

1982年8月26日木曜日

余市~小樽水族館~石狩

朝食の後、早速ニッカウィスキー工場へ。ところが時間が早すぎて未だ開いていなかった。残念だがあきらめて小樽水族館へ向う。



昨夜、あまり眠れなくて、今日は朝からいらいらしていたのだが、魚やイルカなどを眺めていたら、だいぶ気が晴れてきた。ここで数時間ゆっくり過して札幌へ向う。


札幌でONO商会というショップへ行く。
スポーク5本、ブレーキシュー、パンク用のラバーとパッチを購入。ついでに先日から気になっていたBBの鳴りの修理をしようと、道具を借りる。
「こういう道具は貸したり借りたりするもんじゃない」とおこられるが、貸してくれた。本当に有り難うございました。分野は違うけど、ある方面のプロになった今、あの時の言葉の意味が良くわかります。

店の前の歩道でBBを分解。グリスアップと調整を済ませ出発。

石狩川の河口付近でキャンプの予定だったが、道に迷う。たぶんこの辺じゃないかな、でもわからない。しかたがないので、道をたずねてみた。すると・・・。
「石狩川?。もう少し先だね。どこ行くの?。ふーん。もう日が暮れるよ。今日はうちに泊って行きなさい。」
僕「?」耳を疑う。失礼なことに今の言葉を聞きかえす。
「だから、うちに泊って行ったら?!」えー?。
この人はこのうちの奥さんで、夕方子供さん(小学生)が帰ってくるのを待っているところだったらしい。田舎というより郊外と言った方がしっくりくる街角で、暮れゆく空をを見ながら、子供さんが帰ってくるのを二人で待った。この夕暮れも忘れることの出来ない思い出だ。

子供さんもご主人も僕を大歓迎してくれた。北海道の特産品を沢山ごちそうになる。シャワーを浴び、ふかふかの蒲団で寝ることが出来た。ありがとうございました。また一つ思い出が出来ました。

1982年8月25日水曜日

瀬棚~余市

家族の皆さんと一緒に朝食をいただき、ご本尊様にお礼をして10時、おにぎりまでいただいて、遅い出発。

国道229号線を北上。雷電海岸で記念写真。



神威岬を周るという大学生と岩内で別れ、僕は国道5号線を余市へ向う。
僕も神威岬の方を考えたが、地図を見ると途中道が無かったり、抜け道もかなりの難所のようだったので、この重装備では無理と判断した。

この日は結局暗くなるまで走る。
余市駅宿泊断わられる。しかたが無いので小荷物取り扱い所の裏に良いところを見付け、シートをひいて寝る。疲れ過ぎたせいかなかなか寝付くことが出来なかった。

1982年8月24日火曜日

上ノ国~瀬棚 大光寺

朝、目覚めてびっくり。
昨夜は例の大学生と、少し遅くまでバス停で宴会をしてしまった。おかげで目をさましたのは7時過ぎ。外を見るとバス待ちの人が沢山居た。しかも昨夜寝る時、用心のためなどとい言って中から鍵をしていた。

皆の迷惑そうな視線を感じながら、シュラフから出ることも出来ず、バスが行った後ずるずると起床。あの時の皆さんごめんなさい。

この日は2人で瀬棚町まで走る。
駅(まだ廃線前だった)に行く。ここで寝たいと言うが断わられてしまった。
しょうがない。どこか違うところを探すが良いところが無い。町中すぎてバス停で寝るのも気がひける。
しばらくうろうろしていると「大光寺」というお寺が。うーん、2人で悩んだ末「すいませ~ん。泊るところが無くて・・・」あつかましい限りだ。

大光寺の方は快く泊めてくださいました。そればかりか、家族と一緒に夕食、朝食をご馳走になりました。皆さんと楽しく過させていただき、ふかふかの蒲団へ。大感謝です。

1982年8月23日月曜日

函館~上ノ国

函館出発。国道228号線で松前半島を周る。

函館市から離れしばらく走ると、なんとなく北海道らしくなってくる。
街を離れるともう人と会うこともない。ただ一人でペダルを漕ぎ続ける。自動車もほとんど走っていない。

と、一人の大学生ツーリストと出逢う。しばし一緒に走る。彼は釣道具を持っていた。
「おしょろこま」を釣りに行くと言う。僕は釣のことはよく知らない。「おしょろこま」というのは北海道にしかいない珍しい魚らしい。
釣ったら食べたりせずにサイズを測って放すという。ああ、それなら知っている。この前、雑誌ビーパルで読んだぞ。
「うーん、ヒット アンド リリース ですね。」と言うと、彼は腹をかかえて笑いだした。
「それじゃぁ釣れてないじゃん(爆笑)。キャッチ アンド リリースだよ。どこで覚えたの、そんな言葉。」あちゃ~。知ったかぶりはしないことですね。恥ずかしい。

この写真、どこか忘れてしまった。知ってたら教えて下さい。
大笑いの大学生をぱちり。



この日は150kmほど走り上ノ国へ。道路脇のバス停で寝ることにする。
北海道のバス停は雪のためだろう、アルミサッシでしっかり雨風を避けられるようになっている所が多い。鍵もそのまま付いている。

1982年8月21日土曜日

函館の休養

とうとう北海道へやって来た。フェリーから降りて直ぐに函館駅へ向い今夜の宿を探す。

駅の入口の壁に自転車をたてかけ、旅行センターへ。「函館市内でここから出来るだけ近い、最も安い宿」をリクエスト。
「それならねぇ」職員さんがぱらぱらと資料をめくる。
「ここが良いね。『いずみ旅館』、1泊2000円だけどいい?」。おー、安い。早速連絡をしてもらい向うことにする。すると
「飯はついてないよ。」
「適当にどこかで食べるから大丈夫です。」
「なら、ここに行ってみな。『養老の滝』。安くて旨いよ。」
「そうします。ありがとう。」

いずみ旅館は小さな素泊りの宿だった。初老の夫婦が経営していた。まずは部屋へ。う~ん、窓が無い。ま、涼しいから良いか。蒲団も大きいし清潔なので、なにより安いので気に入った。
疲れをとるために連泊することにする。

先に風呂に入り汚れをおとし、部屋でしばしごろごろして、暗くなるころ街へ。養老の滝へ向う。

いいなぁ。こんな居酒屋が一番落着きますね。
まずは生大ジョッキ(350円)を注文。一息で飲み干しおかわり。

食べるものは北海道らしいものと思ったのだが、よくわからないので、なんだか学生時代と同じようなパターンとなってしまった。
焼鳥3本(300円)、イカの刺身(250円)、しおから(150円)、ししゃも5匹(200円)、石狩なべ(500円)。
どれもとても旨い。結局生大ジョッキも3杯飲んで良い気分で店を出る。

街を少し歩くとパチンコ店が。なんだかむしょうに打ちたくなって入店。元々上手では無いので、あっと言うまに700円使い宿に帰る。

久々の人込みと雑音に身をゆだねつつ疲れをとる。この日はいつのまにか寝込んでしまっていた。

翌朝宿のご夫婦と一緒に朝食をごちそうになった。ありがたい。今夜も泊る事を伝えるととても喜んでくれた。それで頼みが有ると言う。
これから夫婦で出掛ける用事が有る。この部屋でテレビを見たりお菓子を食べたりして良いので、留守番をして欲しいと。

今日は1日寝て過すつもりだったので留守番をひきうける。お言葉に甘えてお茶をいただき、菓子をつまみながら、テレビを見る。
飼猫出現。1日中猫と遊びながら過した。お客は一人も来なかった。

夕方、ご夫婦が帰って来たので旅行に必要な物を買い出しにでる。そのまま、また養老の滝へ。満腹で帰り荷物の整理をして早めに就寝。明日からはいよいよ北海道の道だ。

結局目指すは北海道なのか

少し雨が降るがすぐに止んだので出発する。国道脇の道を相内へ。そこから国道339号線を通り今泉、そして蟹田へ。ひたすら青森市を目指す。早く北海道へ渡りたいので竜飛岬は寄らないことにした。しかし、なんでこんなに急ぐんだろう。

お昼過ぎには青森港へ到着し、30分程待ってフェリーへ。4時間程で函館に着く。本州ともしばしの別れだ。福島、宮城、山形、新潟、秋田、青森の皆さん、あたたかい声を有り難う。皆、とても親切でした。

北海道初上陸のこの日は、記念に久し振りの蒲団で寝ようと思っているが、まだ何も決っていなかった。函館に着いてまず函館駅へ。腹がへったので、宿と晩飯の心配をすることにする。

1982年8月19日木曜日

十三湖

男鹿半島を離れ、国道101号線を北上する。連日の好天で日焼けがはげしい。特に腿がひどい。真っ赤になってひりひりと痛む。

相変わらず景色を楽しみながら、ひがな1日ペダルを漕ぎ続ける。青森県に入り、木蓮寺というところの海岸でキャンプ。少し疲労がたまって来た。

津軽半島に入り、十三湖到着。雨のせいか少し淋しげな風景だ。十三湖近くの海岸でキャンプ。近くに有るちいさなお店に行き、パンと牛乳を買う。しばしおばさんと話をする。こんな旅行者は珍しいらしい。

1982年8月17日火曜日

男鹿半島

雄物川河口でキャンプ。

翌日は田沢湖か男鹿半島か迷ったが男鹿半島へ向うことにする。




男鹿半島は、海岸線をぐるっとまわるがすごいアップダウンの連続だった。強い日射しを受けながら海ぞいの狭い道を、幾つもの小さな集落をぬうように進む。

入道崎で記念撮影。



 入道崎灯台と愛車。


ギアから異音が有る。改めて見ると、このころは荷物の積みかたが良くない。いかにも重そうである。これも次第に改良されて行く。

入道崎灯台キャンプ風景。


こんな日はやっぱりビールは欠かせない。毎日1リットルは飲んでいた。水分補給とイイワケをするが、普通の水と同じくらい飲んでいたことになる。

1982年8月16日月曜日

吹浦のキャンプ場

鳥海山を見ながら吹浦のキャンプ場泊。

1982年8月11日水曜日

蝉時雨

母なる白石川の音を聞きながら寝たら、朝はすっきり、昨日のいやな気分もだいぶ晴れていた。元気良く出発。国道113号線をとにかく日本海目指す。

暑い夏だった。そして、今でもこの道の様子が時々蘇ることが有る。

山に行って最後の急登にさしかかったとき、たまにしか乗らなくなったけど自転車で辛い上りを行くとき、仕事で連日の徹夜を強いられているとき。何故か頭のなかでは蝉時雨。あの国道113号線、山形を過ぎ新潟の県境を迎えそれでもまだ辛いアップダウンを行くとき、道端の木々から蝉時雨が降り注いでいた。真っ白な景色。そして開けた先に見えた日本海を僕は忘れない。

長い下りを快調にとばし、無事村上市へ到着。ここから国道345号線にのる。高校時代に自転車で東北1周したとき、ここ笹川流れの景色を見て感動した。1日中この景色を見て走る喜びを感じた。ここは夕日が特にすばらしい。あの頃のことを思い出しながらひたすら北上する。確かこの辺のバス停かなにかに泊ったはず・・・。なんとなく覚えのある近くの海岸でキャンプ。思い出に浸っていると隣のテントではカラオケが始まる。勘弁してほしい。なんでどこでもここでもカラオケをしたがるんだろう。

1982年8月10日火曜日

自由というものとうしろめたさ

暑い。富岡の海岸から国道6号線を北上し、相馬市へ向う。余りの暑さで頭痛がする。耐えきれず自販機で缶ジュースを買って大量に飲んでしまう。相馬から国道113号線へ向きを変え内陸に向う。とたんに急な上りだ。体調はとても良い。激しい上りにも関わらず心配していた左足はびくともしなかった。もう大丈夫だろう。

丸森を過ぎ国道349号線へ。阿武隈川の川原でキャンプ。途中パンクしたチューブを修理し、タイヤをクレメンからブリジストンに変え、夕日を見ながら一人乾杯。飯を炊きながらビール、水割りと上機嫌である。食事が終るころ天気が悪化しテントへ。良い一日だった。

翌日は、以前足を故障した時にお世話になった親戚宅へ。1泊お世話になって次の日はこの辺の親戚の家々に久々の挨拶へ向う。

皆歓迎してくれたのだが、何となく非難的な視線をも感じていた。長いことご無沙汰で突然自転車でおしかけて、しかも仕事もせず旅行をしている。実はあまり嬉しい客では無かったのかもしれない。

しかし、今思うとそうではなくて、自分自身の中に、うしろめたさのような物を感じていたのだろうとも思える。皆、真面目に仕事をして日々生活している。そんな人達にとって、僕のような人間はきっと奇異に感じたことだろう。それは、僕自身も充分判っていた。

これ以上、肩身の狭い思いをしてまでここには居たくない。本当はもう一日くらい居て色々と話もしたかったのだが、荷物をまとめてそそくさと出発した。

足を故障して実家の家で療養中、兄の友人から「極道」と言われた。良い意味でと理解したいが、確かに極道だ。自分の好きなことを自由に選んで生きている。なんとも我儘な人間に見えたことだろう。でも誰にも迷惑をかけず自分の信じる道を、「今しか出来ないこと」と理解し実行して生きて行くことがそんなに不思議なことなのだろうか。確かにこうして好きな旅が出来るのも、寛大な両親と両親と同居してくれている兄夫婦のおかげだ。感謝している。

色々考えるとむしゃくしゃしてくる。とにかく山形へ向うことにする。国道113号線を上る。山形県境近くに僕の生れ故郷が有る。子供の頃からよく通った道だ。だらだらとした道を、懐しい風景を楽しみながら黙々と走る。途中に父の生家が有り叔父夫婦が住んでいる。よせばいいのにやはり顔を出した。僕はこの辺の親戚が皆大好きだ。子供のころからかわいがってくれて、楽しい思い出がいっぱい有る。だから近くを通ったら是非寄って行こうと決めていた。でも、露骨に迷惑そうな顔をされた。しょうがない。それでもお茶を一杯ごちそうになり、少し話をしてまた出発した。もう陽が傾いて来ている。この日は小原の川原へおりてキャンプ。雨が降りだした。

なんだかいやな一日だった。一番良くないのは僕自身なのだろう。だけど・・・。この日以来、今でも親戚がなんとなく苦手だ。

うしろめたい気持は正常なことと思う。少しはその位の意識も必要だろう。だけど自分を責めることもないのだ、と水割りで気分の良くなった頭が都合の良い結論を出してくれた。僕を含め、全ての人が正しいのだ。そしてやっぱり、旅は続く。

1982年8月9日月曜日

再々出発

不安が無いわけでは有りませんでした。ここ数日、走り込みなどをして体調を上げ、足の故障も完治しているという手応えは感じていました。ただ、肝心のペダルを踏むというのだけ何故か忘れていました。走ることと自転車を漕ぐことでは使う筋肉などが違うはず。この日自転車に跨がって久し振りだなと思うほど、乗っていませんでした。

朝10時出発。前回の失敗を踏まえ、気負わずゆったりと出発です。小名浜の雑踏を避けて産業道路を走ります。海岸線を北上し何故か濃い霧の中を国道6号線に出ました。淡々とした走り。本当は嬉しくてしかたがないくせに、敢て冷静に進みます。途中、数人のサイクリストやバイクツーリストと出会い、しばし話し込みます。この日は富岡の北の熊川河口付近でキャンプ。小良ケ浜にテントを張っていましたが、地元の人が、「満潮時にはこの辺は水没するぞ」と教えてくれて、熊川の方へ移動しました。

一人黙々と練習するサーファーと出会いました。早く上手くなりたいので、仕事を終えてから毎日練習に来ているという。1時間ほど話して別れ焚火をしながらゆったりと久々の一人きりの時間を楽しみました。心配していた足も快調で、このまま無理せず少しづつ調子を上げていけば良さそうです。

明日から日本海を目指します。

1982年8月8日日曜日

再出発そして故障

約1ヶ月、故郷の家でごろごろと過しました。疲れがとれてもその後ろくにトレーニングもせず、ただひたすらごろごろ過していました。

7月1日朝6時、家族に見送られ出発。途中で高校時代の友人と会いしばし談笑。その後国道6号線を北上し途中から内陸にコースを変えます。だらだらとした上りが続きます。しばらくすると右膝が痛み出しました。この痛みはよく知っている痛みで、しばらく無理せずペダルを回し続けると引くはずです。しかし、右膝の痛みが引き始めたころから、今度は左膝が痛み出しました。なんだかいやな痛みです。右膝をかばいながら走ったせいかもしれません。

結局、次第に増す痛みに耐えながらもその後約半日走り続けキャンプ。翌朝は痛みが無くなっているのを祈りつつ寝たのですが、朝、逆に激痛に変っていました。ここから半日走れば親戚の家が有ります。電話をし、事情を話して向うことにします。もう左足は力を入れることが出来ません。右足だけで半日、約50km走り親戚の家へころがりこみました。

その日の夜、故郷から兄が自動車で迎えに来てくれました。翌朝、自転車を積んだ兄の自動車で故郷へ逆戻り。家に着いた時は悔しいやら情けないやらで涙が止まりませんでした。

翌日病院へ。思った通り関節炎でした。薬をもらい治療生活に入ります。完全に治るまで2、3週間はかかるだろうと言われました。ショックでした。これから1ヶ月ほど何もせずただ家族に迷惑をかけて過さなければいけません。

初めの1週間程は本当にまともに歩けませんでした。痛みがひどく動くのがいやでした。しばらくすると痛みが減ってきたので、毎日少しずつ歩くようにします。軽い運動をしながら毎日を過し、3週間目ころ、漸く痛みが消えました。少し恐い気もしましたが、本格的にトレーニングを始めました。ジョギングから走り込み。この旅の前に名古屋でしていたような運動を毎日繰り返します。長い長い日々が過ぎて行き、もう大丈夫と思った時、既に8月も数日過ぎてしまっていました。再々出発は8月9日と決めました。